フィリピン/出会う旅2017感想文2

遠藤小夢(大学生)

絶えず鳴り響くクラクション、舞い上がる土埃に排気ガスのにおい、目を瞑ればジプニーに揺られる感覚が甦ってくる。マニラでの8日間は、毎日が衝撃の連続だった。

初日に訪れたディヴィソリアというスラム街では、10代前半にして自分の赤ちゃんを連れた女の子がいた。シンナーを吸って意識が朦朧としている子がいた。髪は乱れ、服は薄汚れ、もちろん裸足であった。しかし彼らは満面の笑みで私たち”よそ者”を受け入れ、私の手の甲を自らの額にくっつけた。これはフィリピンの子どもが大人への敬意を表すための行為である。彼らは地元のファストフード店「ジョリビー」を教室として、自分の体を守るために健康や衛生に関する授業を受ける。授業後に与えられるわずかな食べ物を、多くの子どもたちが両親や兄弟と分け合うために持ち帰る姿が印象的だった。

NGO「チャイルドホープ・エイジア」でディヴィソリア地区を担当するソーシャルワーカーが、「ここの子どもたちは、ほかの地区のストリートチルドレンとは違うんです。ほかの場所にはない、一番の笑顔を持っているんです」と、誇らしげに話した意味を、私は残りの日々で実感することになる。

次の日には、12~17歳の少年たちが定住するNGO「パンガラップ・シェルター・フォー・ストリートチルドレン」を訪問した。個人の寝床やロッカーが与えられる一方、携帯電話やゲームの所持は禁止、勉強第一という規則のもとで生活していた。綺麗とは言えないが、きちんと整備された施設の中で生活する彼らは、シェルター内で任された役割や学校での勉強に、強い意欲を持って取り組んでいるように見えた。こういった環境に身を置くだけで、身なりも英語力もここまで異なるのかと、前日に見たスラムの子どもたちと比較して、痛烈に感じた。その後は墓地で暮らすジュリアンのお家を訪ねた。

翌日には、少女や若い女性の支援をするバクララン教会のシスターたち(NGO「セラズ・センター・フォー・ガールズ」のスタッフ)を訪ねた。実際に彼女らの支援を受けて大学に進学し、現在は公立学校の教師として働いているコリーンさんにお話を聞くことができた。彼女は貧しい家に生まれ、田舎からマニラに移り住んできた。実の父親から性的虐待を受けたこともあったという。その後、シスターたちの支援を受け、奨学金を受給しながら大学へ進学。本当は看護師になりたかったが、学費や医療器具が高額であるため、教師の道を選んだという。

母親が病気で亡くなった後は、父親が精神不安定になり、弟妹もろとも殺されそうになったと話した。父親は刑務所に入ったのち、今は田舎で穏やかに暮らしているという。コリーンさんは結婚し、子どもにも恵まれた。旦那さんや息子さんの写真を見せてくれるコリーンさんは、そんな苦しい過去を持つとは思えない、素敵な笑顔を浮かべていた。聞いているだけで胸が張り裂けそうになる経験をしながらも、それを乗り越え、幸せになりたいという一心で学び、夢を叶えた彼女の強さに、感銘を受けた。

また、教会の敷地内に新しくオープンしたコーヒーショップで働く女性にも、話を聞いた。いわゆる夜のバーや風俗店で働く若い女性たちは信心深く、仕事帰りの明け方、教会に立ち寄ってお祈りをする。そんな女性たちにシスターが声をかけ、新たな生き方を提案する。彼女らは教会が運営する様々な講座から選び、学び、新たな職につく。中でもバリスタとしての技術と知識を身につけた女性が、そのコーヒーショップで働いていた。彼女らはみな、現在の仕事に満足しているようで、さらなるキャリアアップを目指して努力しているようだった。

ツアーも後半に差し掛かった頃、私たちはゴミ集積場を見学した。そこにはマニラからのゴミが毎日、黄色い大きなトラックで運び込まれ、スカベンジャーと呼ばれる人々がお金になりそうなゴミを拾い集めている。10年以年前の大雨でゴミ集積場が崩落し、周辺に住んでいた三百人以上の住民が命を落としたという話は聞いていたが、そこからの復興や再開発の様子も、施設の人の説明やビデオを通して知ることができた。

崩落事故をきっかけに、政府が対策を講じ、様々な工夫がなされ、今では安全にゴミが処理されている。しかし、いつかは限界がくる。その時には新たな解決策や場所が必要となる。安定的に、そして永続的にゴミを処理できるシステムづくりには、まだまだ時間がかかりそうだと感じた。

マニラ滞在中のある夜に、私は旧友との再会を果たした。内閣府が主催する「東南アジア青年の船」で実行委員を務めていた高校時代、地元・岡山に招き、ホームステイをした青年である。彼は大学卒業後、シティバンクに就職し、ニュー・マニラと呼ばれる、いわゆるオフィス街で生活していた。ストリートファミリーで溢れ、どこを歩いても物乞いに遭遇するオールド・マニラとは異なり、すべての土地がきちんと整備されているため、路上で生活する人はいないと話した。

私はツアー期間中、オールド・マニラのペンションに滞在していたので、ニュー・マニラの様子も次の機会に見てみたいと思った。きっと彼の話を聞かなければ、私は自分が見たものだけを”マニラ”として記憶しただろう。そう考えると、国や地域の全体像を捉えるのは非常に難しいことで、”世界は知らないことだらけ”というのを身をもって実感した。

自分ひとりでは決して踏み込むことのできない、言ってしまえばマニラの”負の部分”を見せてくださった工藤さん、篠田さんには感謝の気持ちでいっぱいだ。大学でスペイン語を学び、ラテンアメリカ地域を専攻する身として、次回は是非、メキシコツアーに参加したい。また、マニラで一番の笑顔を持つディヴィソリアの子どもたちにも、再会したい。

(2017年4月発行のニュースレターNo267より)

フィリピン/出会う旅2017感想文1

 鶏におこされて


瀬尾真志(半漁師、半会社員)

 鶏の声で目覚める。ぺンション・ナティビダッドの朝。シンプルで清潔な部屋だ。テレビなし、エアコンなし、安っぽい額縁の絵なし。朝起き鳥の飼い主は、この宿の向かいに暮らす路上生活者かもしれない。

 3階の部屋から階段を降りていく。無垢の一枚板の階段だ。モップで手入れが行き届いている。この宿はまるで美術館のように心が落ち着く。踊り場からロビー、エントランスまで絵画が飾られている。額装やレイアウトもいい。『お花畑』、『マンゴーの籠を担ぐ女たち』、『椰子の浜辺と舟』、『茜色の風景』、『聖母像』『最後の晩餐』、『網を曳く漁師』、数点の壺…。

 朝6時はまだうす暗い。ロビーでは、スマホや端末画面が光っている。まるで飛行機のコックピットのようだ。椅子にもたれかかりニュースをチェックしている人。スケジュール確認をする人。PCに向かってスカイプで会話する人…。

 食堂のサイドテーブルに小ぶりのバナナがある。ほんのり赤く食べごろだ。バナナ皿の上にバナナの油絵がある。まるで路地に眠る子犬や子豚が横たわるようだ。毎朝、私はオムレツプレートを注文した。甘酸っぱいソースとバナナケチャップをかけて、山盛りサラサラごはんと食べる。フィリピン珈琲があっさりと美味だった。アキノ大統領がコーヒー栽培を推奨し、フィリピン珈琲が美味しくなったという。

ストリートチルドレン・スタディツアーの一日が始まる。街へ。

  • ソーシャルワーカー、ティーチャー、シスター、ブラザーの奮闘

 NGO施設を訪ねる。有志が路上の子どもたちに手をさしのべる活動をしている。子どもたちに、おとなが寄り添うことであった。カトリック教会、個人やグループ、企業が支えている。シスターが話してくれた。「一番大切なことは、子どもたちに日常生活の基本を教えることです」。これを一心に子どもたちに伝えていた。朝はきちんと起きて、歯を磨き、髪や身なりを整えましょう。学校へいって、一生懸命勉強しましょう。暮らしの基本が大事なのだ。

  • 少年生活支援学校(施設)を訪問する

 NGO「パンガラップ・シェルター・フォー・ストリートチルドレン」を訪ねた。12才から17才の男の子が寝起きをしていた。思春期ド真ん中、ふつふつとした問題を抱える年頃だ。子どもたちは明るい。礼儀正しい。施設内を案内してくれた。中庭、休憩場所、寝室、ロッカールーム、ロッカーの中、ぜんぶ見せてくれた。きちんと整理されている。折り紙やバトミントンに夢中になる子どもたち。白い歯、きちんと整えた髪が印象的だ。この施設には、歯医者さんがいる。近所の床屋さんが、毎週ボランティアで整髪してくれるという。

 この施設の出身者のA君に、インタビューした。シーマン(船舶業従事者)を目指し、奨学金を貰って大学に通っているという。私は幼いころ、鯨の研究をしていた叔父に憧れた。絵本『シンドバットの冒険』をなんども読み、船乗りになりたかった。貨客船に乗込み、世界旅行を…私の計画は未遂に終わる。ここでは多くのストリートチルドレンの男の子が、船乗りを目指すのだ。両親や兄弟を経済的に支えたいという。学校に通い、奨学金をとって、ハイスクール、カレッジへ!

  • あいさつと自己紹介

 毎日、私たちはマニラの町を徒歩とジプニー(乗り合いバスのようなもの)で移動し、NGOの活動現場に向かう。まず、あいさつだ。リーダーの工藤律子さんは旧友とハグを交わす。再会の喜びを確認し合う瞬間だ。神々しい瞬間であった。そのあとは全員の自己紹介である。マニラの8日間、私は挨拶、挨拶、挨拶、自己紹介をくりかえした。

 I am Masa

 From Tokyo

 I am a fisherman

 in the morning, after that…

 working as a businessman

 in Tokyo

 なんとなく、ピコ太郎のリズムになっていく。フィリピンでもピコ太郎をみな知っている。私が自己紹介を終えると、シスターたちは大騒ぎ「Masaは子どもたちみんなのお手本よ。ふつうの人の2倍働いて頑張っているの。みんなもがんばりましょう」。

 子どもたちに大うけだった。私は、サラリーマン生活が約30年になる。15年前から早朝に地元の漁師の手伝いをしている。「半漁半サラ」の暮らしを続けている。だが、現実は、会社でも浜でも苦戦中だ。「仕事はつらいよ」なかなか一人前になれない。

  • 伸びる手

 マニラの道端で印象に残るもの、ひとつめは、人ごみから伸びてくる手。シスターから言われた。

「子どもたちは手を伸ばして、目をつぶり、あなたの眉間あたりに手をかざしてきます」

 挨拶なのか。もっと心の底の何かを感じた。寄り添いのメッセージなのだろうか。すぐ肌の隣の感覚があった。ソーシャルワーカ―は、「子どもたちには、お金や物をあげないでください」という。街を歩いていると、たびたび物乞いの手がのびてきた。心あらずの手だった。

  • 眠る人

 マニラの道端で印象に残るもの、ふたつめは、眠る人と眠る動物たちだ。路上で、岸壁で、リキシャのサイドカーで、スラム街の階段の片隅で、人が眠っている。犬が道端で横になっている。猫が眠る。豚が眠る。伊藤若冲の日本画から飛び出してきたようなスタイルのいい鶏が、籠の中でおとなしくしている。大人も子どもも横になっている。熱帯の気候のせいなのか。家の無い人たちなのか。無気力な人、希望がない人、病気の人なのかもしれない。横たわるものたちは、あまり身の危険やストレスを感じていないようにもみえた。東京のサラリーマンやOLの顔を思い出した。超満員の通勤列車で、吊革を握りながら揺られ、眠る姿を。

  • ココヤシの村で

 日曜日、郊外のココヤシ園へ小旅行にいく。ここにも元ストリートチルドレンの男の子の学び舎があった。子どもたちに案内される。まずはパフォーマンス付のあいさつと自己紹介があった。ココヤシナイフで椰子の実を割って、ジュースや果肉を食べた。フィリピン珈琲に粽をいただいた。糯米をココナッツミルクで炊き、バナナの皮で包み蒸したものだ。ココナッツオイルの製造を見る。ココナッツの実にオイルを塗って、ゲームをする。川遊びしてお散歩。ココナッツづくしのフルコース、休日を堪能した。

 土埃の道を歩いていた。突然、目の前でバスケットボールがはねた。バスケは、フィリピンの子どもたちに一番人気のスポーツだ。ボールの空気が抜けているのか、いびつに跳ね、草むらにころがっていった。それは、頭上十数メートルから落ちてきた椰子の実だった。ひやり、である。路上にて。こんなことも起きるのだ。宿に帰り、新聞を読む。『The Manila Times』によると、日本海に4発のミサイルが落ちたという。

 マニラの夕陽は見事だった。日の入り前、NGOの人々は子どもたちが生活をする公園へ、夕ご飯の配給に向かう。生活の基本を、IT端末やポスターを使って子どもたちに教える。ハンバーグ、炒飯、パンなどをもらって、公園で夕餉の時間を楽しむ。半分を食べ残す子どもがいる。親、兄弟に分けてあげるのだという。家族思いだ。

 今のフィリピンは、戦争直後70年前の日本と似ているといわれる。フィリピン人の平均年齢23歳。人口は1億を超えた。1千万人が海外で働く。ストリートチルドレンたちにも、「家族が大好きで、ぼくたちが、妹や弟を支えなければ」という使命感が、強く感じられた。

 子どもたちと触れ合い、いろいろな学びがあった。身近で困っている人に寄り添うこと。現場を自分の目で見ること。よく眠ることの大切さ。もっとゆったりとかまえて生きていきたい。大きくなった子どもたちと、どこかの海で再会できたらうれしい。   

(2017年3月発行のニュースレターNo266より)