More than a shelter NGO「バハイ・トゥルヤン」の挑戦 参加報告1

 
運営委員・高橋 茜

 7月1日のチャリティパーティでは、フィリピン、マニラにベースを置く現地NGO「バハイ・トゥルヤン」のソーシャルワーカー、エナさんが、同NGOの活動とその姿勢を紹介してくれた。同NGOは、スタッフに加え、スラムの若者たちを巻き込んで、ストリートエデュケーションから避難施設、定住ホームの運営まで実施する、ユニークな団体だ。(詳しくは、同NGOのホームページやフィリピンツアーの感想文を参考に。)

 説明の後は、彼女の計らいで、グループ・ディスカッションの場が設けられた。そのグループ・ディスカッション(参加者が3つのテーマについて2つのグループに分かれて議論する)の間に、エナさんが日本語から英語への通訳を担当する私を呼び、(議論するテーマの一つ)「日本で子どもたちが不当な扱いを受けているのはどんな時だと思いますか?」と尋ねた。私は少し迷って、「自分の意思で行動ができない時だと思います。たまには遊びたいのに、親がずっと勉強することを強いたり、親と一緒にいたいのに、経済的な状況のせいで親と過ごす時間がない子どもたちがたくさんいると思います」と答えた。それから数日間、私は日本の子どもたちの現状と、子どもたちの意思に沿った支援をするということの意味を、考えていた。

 私の周りの学生たちは、日本社会の中でも比較的「いい子」であった人々のように感じる。それなりに勉強をして、大学に入ってきている人がほとんどであるし、それ以前も親の援助を受けながら勉学に励んでいたという点では、理想的な子どもであったことは想像に難くない。しかし、彼らを知っていくうちに、彼らがただの「いい子」ではないということが、少しずつわかってくる。

 私の友人のうち、ある女子学生は、両親に男子生徒にあまり近づかずに生活するようにときつく言われて育ったためか、今でも男性と会話をすることもままならないという人がいる。また、親から常に他人と比較され、けなされながら育った人は、親元を離れて生活している現在でも、親の機嫌を常に伺ってしまう、と話していた。精神的暴力を振るった親がつけた名前だから自分の名前が嫌いだ、という人もいる。子ども時代を抑圧とともに送った、そのような人たちに共通する不安定さは、時に彼らを精神的に危険な状況に追い込んでもいる。そんな時、彼らの一人が私に話した言葉が衝撃的だった。

「ウチの親はさ、毒親だからさ」

 毒親という言葉は、数年前から、親の精神的・肉体的暴力や過干渉などに苦しむ子どもたち(成人している人も含まれる)が、自らの親の異常さを伝え、共有し合うための言葉として使われているらしい。インターネット上にはそのための掲示板やサイトが乱立している中、「自分の親を毒と呼ぶとは何事だ」という意見もある。その意見の裏には、親は常に正しい、子どもはその親に従うべきなのだ、という原則が見え隠れしているが、本当にそれは正しいのだろうか?

 エナさんのプレゼンテーションの中で、特に印象に残ったのが「親は子どもたちに間違ったことをしている可能性もある」というところだった。つまり、子どもたちの意思が無視され、親だからという理由だけで様々なことが子どもに押し付けられていることがある、ということだ。児童労働や売買春といった違法行為にとどまらず、いわゆる世間的には良いとされていることでも、子どもの同意なしに親がそれを強制し続けるということが起こっており、子どもの権利はそれらの事柄から守られるべきである、との主張は、バハイ・トゥルヤンが活動しているフィリピンだけでなく、世界中で行われるべきものであると感じた。

 日本でも、親は子どものことを愛し、子どもを一番に考えているものであるとされているが、その方法が間違っている場合に、子どもがノーと言える機会があるだろうか。ノーと言えずに育ってきた子どもたちが今、大学生になり、友人関係や恋愛関係、学業や精神的な健康に問題を抱える事態に発展しているケースを、私はいくつも知っている。これらの人々の苦しみは外には見えづらく、「いい子」像に隠れてしまい、さらに重大なことが起こるまで、親は気づくことがないのではないか。もちろん、親に反抗すれば良いというわけではないが、子どもたちが「何か違うぞ、これは嫌だな」と思った時、親に直接言うこと自体が難しい。そうして我慢を重ねて慣れていくうちに、それが普通になり、特に何も思わずに従う子どもになっていってしまう。そこに少しだけ入り込むことができるのは、周りにいる私たち大人である。

 グループ・ディスカッションの中で出た意見で、日本社会で地域コミュニティの役割が急激に減っており、ほかの家庭のことがまったくわからず、虐待などのケースに気づくことすらないという意見があった。かつてあったご近所づきあいのように、私たち一人ひとりが毎日、道ゆく子どもに目を向けることは難しいが、自分とはまったくの他人であっても、子どもが不当な扱いを受けていると気づいた時、もしくは子どもたちがそれを知らせてきた時には、私たちは一歩踏み込み、子どもたちが彼らの意思に沿った生活ができるように支援する義務があると考える。子ども時代をどう過ごしたかが、その後の人生における価値観や人格をある程度形成する。そう考えると、少しお節介なおばさんになってでも、周りの子どもたちの話を聞き、必要な支援があればそれらにつなげることで、子どもたちが抱える問題がその長い人生に与える悪影響を少しでも減らすよう、私たちは努力するべきだ。

(2017年7月発行のニュースレターNo270より)

グアテマラの子ども その7


*中米グアテマラの地元メディアの記者が、現地の子どもたちの様子をレポートします。

  現地記者 ハイメ・ソック

 アダルベルト・ガルシアは、12歳のイタズラ好きでやんちゃな男の子です。彼のことをからかうような友だちが周りにいると、すぐに暴力を振るうところがありますが、それには理由がありそうです。

 彼の家族について聞くと、お父さんはケツァルテナンゴ(グアテマラ第二の都市)のマイクロバスの運転手であることがわかりました。ここでは、バスと同じようなルートで、バスより頻繁にマイクロバスが走っています。アダルベルトのお父さんは遊び歩くことが好きで、夜もしばしば家を空けるようです。お母さんはデボラといい、仕事は洗濯屋です。といっても、お店があるわけではなく、近所の家に出向いて、その家の洗濯物を引き受けることで稼いでいるのです。

 困ったことに、アダルベルトは学校でよく問題を起こし、親が呼び出される事態を引き起こします。悪さをして親が呼び出されるときは、決まってお母さんのデボラが、学校へ行くことになります。そして、お父さんはそのような時、すぐにアダルベルトに手を上げます。その殴り方は容赦ありません。お父さんは、子ども自身に悪いことをしたと自覚させるためには、痛い目に合わせないと理解しないのだと、信じ込んでいるからです。しかしながら、こんな教え方では、子どもをさらに暴力的にするだけです。それだからアダルベルトは、学校の同じクラスの友だちが悪いことをしたと思ったら、平気で殴って、“教え”ようとするのです。

 そんな暴力的な彼ですが、実はプロテスタントの教会の牧師になりたいと思っています。そのために、教会に通い、聖書の勉強を続けています。お母さんはそんな彼を見ながら、教会で、アダルベルトが良い子になり、将来は良い家庭をつくれるようにと涙を流しながら、神様にお祈りをします。

 グアテマラでは、このような家庭環境で育つ子どもたちは、工藤律子さんの著書『マラス』に出てくるような、ギャングの仲間に入りやすい傾向にあります。なぜなら、貧しくて朝から晩まで働かなければならない母親や、仕事の後にもお酒を飲みに行ったりして、長時間、家を空ける父親が多いため、子どもたちは注意をしてくれる大人の目がないところで、友だちと過ごす時間が長くなるからです。道端でフラフラとしているうちに、ギャングまがいの知り合いができ、一緒に過ごす時間が長くなれば、仲良くなっていきます。 

 そのような子どもたちは、家庭で暴力を受けているケースが、多々みられます。暴力の連鎖で、道端でも、アダルベルトが学校で振舞うのと同じように、友だちに対して暴力的になり、すぐに喧嘩になったり、殴り合いになったりします。学校での喧嘩は先生が止めてくれますが、道端だと周りの人が集まってきて、目立ちます。それを見たマラスの仲間が、喧嘩をしている子どもに声を掛けて、“(ギャング)仲間の輪”がひろがっていくのです。

 だから、アダルベルトのお母さんは、涙を流すほど心配をしているのです。息子のことは心配だけれど、貧しいために、外で働かなければならないという葛藤。夫に、稼いだお金を家に入れて欲しいとか、遊びに行かないで帰ってきて欲しいなんてことを言おうものなら、自分も暴力を振るわれるという恐怖感。そのような状況のもと、お母さんには、この家庭問題に対する解決策がありません。教会に行って神様にお祈りすることしかできないのです。

 さて、やんちゃでお母さんには心配ばかりかけているアダルベルトですが、実は、詩の暗唱大会で優勝したことがあります。彼のことをよく見ている担任の先生は、彼は賢くてリーダーになれるカリスマ性がある、と言います。その聡明さやカリスマ性が良い方向へ行けば、将来はグアテマラの社会の素晴らしいリーダーになれるはずだと、信じています。複雑な家庭環境で育つ彼の救いは、教会に熱心に通っていることでしょう。外で喧嘩をするのではなく、教会で学び、お祈りを続けて、多くの人を惹きつけるリーダーになってもらいたいものです。

(2017年6月発行のニュースレターNo269より)