アフリカ大陸ウガンダより その1

てんかんと難民の女の子の未来

運営委員・レブロワ マリヤ
  嬉しさの中で無力さを感じたことはありますか? 唐突な質問ですみません。私がピースウィンズ・ジャパン(
PWJ)のウガンダ北部事業の業務調整員に就任してまもなく、無力さを感じたのは、PWJがウガンダ北部で建てたシェルター(仮設住宅)のアセスメント(利用者に関する情報を収集・分析し、自立した日常生活を営むために解決すべき課題を把握すること)の時でした。裨益者である「てんかん」を持っている女の子がなぜ新しいシェルターで一人で寝ているのかと、保護者の女性に聞いたところ、「一緒にいると攻撃的で危ないし、病気も感染るから」という返事に、唖然としました。てんかんは感染病ではないですし、痙攣がある時はむしろ身近な人から患者へのサポートが必要です。その場では、「感染病ではないですよ」と言って、それが伝わるようにその女の子を抱きしめましたが、一回言ったところで何も変わらないであろうという無力感を覚えました。
 「難民コンテクストにおける患者及び患者の家族の社会経済状況への癲癇の影響」について個人的に研究している同僚のプロジェクトオフィサー、エマヌエル・ロギエールに聞くと、その女の子のケースについて記事を書いたということだったので、ここでご紹介いたします。

 女の子の名前はクリスチーンさん(
14)。南スーダンのジュベック州出身で、幼い頃に両親を亡くし、お兄さんとお姉さんと一緒にてんかんと戦ってきました。2016年、銃声を頻繁に聞くようになり、無差別殺人が村へ及びそうになった時、兄や姉と離れ離れになって、ウガンダへ逃げました。転居を繰り返した末に、お兄さんと再会し、現在はウガンダ北部のとある難民居住地区で、お兄さんの家族の家の敷地内に住んでいます。
 てんかんは、治療すれば治る確率が高い病気です。しかし、てんかんを患っているせいで、クリスチーンさんは様々な困難に遭ってきました。例えば、ウガンダに着いた際、最初はオムゴというところに住むことになりましたが、てんかん用の薬がなかったので、インヴェピというところへ転居させられました。そこでは、お姉さんと再会できましたが、痙攣を見たお姉さんの旦那さんが出て行くようにと言い、また転居となりました。

 こちらではてんかんに関する知識不足のために偏見が多く、クリスチーンさんは、感染するという理由で、親戚と同じ家に住んだり同じ皿から食べたり、嗜好品であるヤギ肉を食べたりすることを許されていません。治療薬としてコミュニティが提唱しているのは、象の尿や茹でダチョウ肉の油の服用、川に住む黒い鳥を食べることですが、どれも薬としての効果がないうえ、入手が無理なものばかりです。

 クリスチーンさんは小学校にいったん通い始めましたが、上記の偏見のせいでほかの生徒と喧嘩し、学校に行けなくなり、今も学校に通っていません。その代わり、毎日家の中の掃除や水汲み、食器洗いなど、すべての家事をやっています。

 PWJがクリスチーンさんに出会ったのは、ジャパンプラットフォーム(JPF)の資金で実現した、特定の支援が必要な人々(Persons with Specific Needs)のための「日干し煉瓦造りのセミパーマネント・シェルター」支援の裨益者を選定した時でした。ドアと呼べるものもなく、ターポリンと呼ばれるプラスチックシートでできた小さな緊急用シェルターに一人で寝泊まりしていたクリスチーンさんが、対象に選ばれました。現在、新しいシェルターが完成し、クリスチーンさんはこう語っています。

「私はPWJのシェルターができて、とても嬉しいです。十分なスペースがあり、ドアもあり、やっと夜はドアにカギをかけることができます」 

     PWJ支援前の家                                   PWJが建てた家 

 彼女は、このシェルター支援のお陰で、これからもっと安全で、もっと快適な住居に安心して住み続けることができます。しかし、それで彼女の未来は明るいものになったのでしょうか? コミュニティや家族の偏見のせいで、学校に行けず、家事ばかりしている彼女は、病気さえ治すことができれば、教育や職を手に入れることもできます。病気を治すには、家族や学校を含めたコミュニティへの継続的な知識の普及・啓発活動が必要です。PWJはウガンダ北部で保健事業をまだ行っていないので、それは保健事業の専門団体や行政の任務なのですが、現時点ではまだ専門機関からの手は差し伸べられていません。

 彼女のケースはとても勉強になり、考えさせられるものでした。PWJにできることは、クリスチーンさんのようなケースでシェルターを裨益者に引き渡す際には、てんかんの実像について語ることと、保健事業を実施している団体などに支援を訴えることでしょう。個人的には、保健事業の専門団体に彼女を紹介しましたが、今後どうなるかまだわかりません。これでもクリスチーンさんの状況はまだマシな方です。彼女のような人は、誰にも探し出されることなく、支援がないまま、偏見の中で暮らし続けています。彼らが遭遇している問題は、想像するのも怖いものです。

(2019年12月発行のニュースレターNo299より)

 

メキシコ・ストリートチルドレンと出会う旅 2019 感想文2

祝原 聖矢(大学生)

 メキシコ、そこは私にとって成長の地であった。時は遡ること3年前、私は福島県立会津学鳳高校の生徒会長だった。当時の私には、「ストリートチルドレン」という言葉は聞きなれないもので、ジャーナリストの工藤律子さんのメキシコでの取材体験談に、私はいつの間にか聴き入っていた。公演後、私は少しの緊張と期待を胸に工藤さんがいる校長室に駆け込んだ。もともとグロバール人材育成プロジェクトという会津若松市の企画に参加していた当時の私は、工藤さんと様々なことについて話すなかで、いつか絶対にこの人のツアーに参加しようと、心に決めた。

 それから3年後の今年、私はメキシコの土を踏んでいた。人生で初めて訪れる中南米である。初日の私は、他の参加者と仲良くできるかどうかがとても不安だった。と言うのも、私の通う獨協大学からの参加者は私1人だったからだ。私は専修大学の宮田君と同じ部屋だった。彼は私より1つ年上ということもあり、とても頼もしい存在だった。彼と話す中で、他にも専修大学の子が参加していることを知り、何日か共に過ごす中で、私は彼らとも友人になった。他にも関西組(関西の大学からの参加者の女の子)たちとも仲良くなった。

 私は、CFFというボランティア団体にも所属しているのだが、やはり共通して思うことは、ボランティアは人と人を繋ぐということだ。今回も改めて、そう感じさせられた。深刻な問題に向き合い、皆で考えるということは、人を成長させる。今後もこのような機会が多い方なので、その機会は大切にしたい。

 私は、このようなツアーに参加すると毎回こんなことを思う。「もし、自分がこの国に生まれていたら?」。この問いは、いつも私を考えさせる問いだ。このスタディツアーでは、多くのNGOを訪問した。そこで出会った子どもたちは、笑顔が素敵な子たちだった。しかし、その裏には、必死に生きてきた過去があった。彼らはその過去と向き合っていた。まだ、あんなに小さいのに。本当なら両親に甘えたい年頃だろう。でも、ほとんどの子どもたちの親は、彼らを育てられない。なぜならば、親も子育ての仕方がわからない。子どもを危険な場所においているという自覚がないからだ。

 そのくらいならまだマシな方で、なかには性的虐待を受けている子どももいた。家が嫌で、殴られるのが嫌で、路上に飛び出していく。でもその路上には、子どもたちを喰いものにしている大人もいる。そんな大人たちに性的虐待や暴力を振るわれ、お腹が空き、どうしようもなくなった先に薬物がある。きっとその薬物は、極限状態の子どもにとっては、唯一の救いなのだ。そう見えてしまうのだ。ダメだとはわかっているのに、気づいたら薬物をティッシュに浸し吸っている。そして、それはいつかあたりまえになってしまう。これが、私が今回のメキシコで感じたことだ。

 子どもたちは、メキシコではあたりまえのように路上で生活したり、働いたりしている。日本では普段、目にしない光景だ。交差点で信号が赤になると、少年たちは洗剤とワイパーを持って車の窓を拭きにいく。それで、まともにアルバイトをするよりも稼げてしまう。そのお金は、薬物と生きていくための生活費に消えていく。そんな彼らとUNOというカードゲームをする機会があった。遊んでいる時も薬物は手放せないようで、私たちの目を少し気にしながら吸っている子もいた。罪悪感からなのだろうか、そんな彼らの顔は少し悲しそうだった。もし私がメキシコに生まれていたら、薬物をやっていないと言い切れるだろうか。私は自分自身に出したこの問いに、いまだに答えられないでいる。私と彼らは生まれた場所が違うだけなのだ。

 帰国して二週間が経ち、今思うことは、薬物を浸したティッシュを握っている彼らの手が、いつの日か彼らの大切な人の手を握っていてほしいということ。生きることが精一杯の毎日 に、少しでも心から笑える日が訪れてほしい。そして何より、自分の未来の可能性を信じてほしい。あんなに素敵な笑顔を持つ子たちなら、きっとみんなを幸せにできる。私はそう信じたい。

 最後に、このツアーを今まで続けてくださっている工藤さん、篠田さん、今回の通訳ボランティアの皆さんや訪問先で出会った子どもたちや職員の方々。そして何より一緒に参加してくれたみんな、ありがとう。

(2019年11月発行のニュースレターNo298より)