フィリピン/出会う旅2017感想文1

 鶏におこされて


瀬尾真志(半漁師、半会社員)

 鶏の声で目覚める。ぺンション・ナティビダッドの朝。シンプルで清潔な部屋だ。テレビなし、エアコンなし、安っぽい額縁の絵なし。朝起き鳥の飼い主は、この宿の向かいに暮らす路上生活者かもしれない。

 3階の部屋から階段を降りていく。無垢の一枚板の階段だ。モップで手入れが行き届いている。この宿はまるで美術館のように心が落ち着く。踊り場からロビー、エントランスまで絵画が飾られている。額装やレイアウトもいい。『お花畑』、『マンゴーの籠を担ぐ女たち』、『椰子の浜辺と舟』、『茜色の風景』、『聖母像』『最後の晩餐』、『網を曳く漁師』、数点の壺…。

 朝6時はまだうす暗い。ロビーでは、スマホや端末画面が光っている。まるで飛行機のコックピットのようだ。椅子にもたれかかりニュースをチェックしている人。スケジュール確認をする人。PCに向かってスカイプで会話する人…。

 食堂のサイドテーブルに小ぶりのバナナがある。ほんのり赤く食べごろだ。バナナ皿の上にバナナの油絵がある。まるで路地に眠る子犬や子豚が横たわるようだ。毎朝、私はオムレツプレートを注文した。甘酸っぱいソースとバナナケチャップをかけて、山盛りサラサラごはんと食べる。フィリピン珈琲があっさりと美味だった。アキノ大統領がコーヒー栽培を推奨し、フィリピン珈琲が美味しくなったという。

ストリートチルドレン・スタディツアーの一日が始まる。街へ。

  • ソーシャルワーカー、ティーチャー、シスター、ブラザーの奮闘

 NGO施設を訪ねる。有志が路上の子どもたちに手をさしのべる活動をしている。子どもたちに、おとなが寄り添うことであった。カトリック教会、個人やグループ、企業が支えている。シスターが話してくれた。「一番大切なことは、子どもたちに日常生活の基本を教えることです」。これを一心に子どもたちに伝えていた。朝はきちんと起きて、歯を磨き、髪や身なりを整えましょう。学校へいって、一生懸命勉強しましょう。暮らしの基本が大事なのだ。

  • 少年生活支援学校(施設)を訪問する

 NGO「パンガラップ・シェルター・フォー・ストリートチルドレン」を訪ねた。12才から17才の男の子が寝起きをしていた。思春期ド真ん中、ふつふつとした問題を抱える年頃だ。子どもたちは明るい。礼儀正しい。施設内を案内してくれた。中庭、休憩場所、寝室、ロッカールーム、ロッカーの中、ぜんぶ見せてくれた。きちんと整理されている。折り紙やバトミントンに夢中になる子どもたち。白い歯、きちんと整えた髪が印象的だ。この施設には、歯医者さんがいる。近所の床屋さんが、毎週ボランティアで整髪してくれるという。

 この施設の出身者のA君に、インタビューした。シーマン(船舶業従事者)を目指し、奨学金を貰って大学に通っているという。私は幼いころ、鯨の研究をしていた叔父に憧れた。絵本『シンドバットの冒険』をなんども読み、船乗りになりたかった。貨客船に乗込み、世界旅行を…私の計画は未遂に終わる。ここでは多くのストリートチルドレンの男の子が、船乗りを目指すのだ。両親や兄弟を経済的に支えたいという。学校に通い、奨学金をとって、ハイスクール、カレッジへ!

  • あいさつと自己紹介

 毎日、私たちはマニラの町を徒歩とジプニー(乗り合いバスのようなもの)で移動し、NGOの活動現場に向かう。まず、あいさつだ。リーダーの工藤律子さんは旧友とハグを交わす。再会の喜びを確認し合う瞬間だ。神々しい瞬間であった。そのあとは全員の自己紹介である。マニラの8日間、私は挨拶、挨拶、挨拶、自己紹介をくりかえした。

 I am Masa

 From Tokyo

 I am a fisherman

 in the morning, after that…

 working as a businessman

 in Tokyo

 なんとなく、ピコ太郎のリズムになっていく。フィリピンでもピコ太郎をみな知っている。私が自己紹介を終えると、シスターたちは大騒ぎ「Masaは子どもたちみんなのお手本よ。ふつうの人の2倍働いて頑張っているの。みんなもがんばりましょう」。

 子どもたちに大うけだった。私は、サラリーマン生活が約30年になる。15年前から早朝に地元の漁師の手伝いをしている。「半漁半サラ」の暮らしを続けている。だが、現実は、会社でも浜でも苦戦中だ。「仕事はつらいよ」なかなか一人前になれない。

  • 伸びる手

 マニラの道端で印象に残るもの、ひとつめは、人ごみから伸びてくる手。シスターから言われた。

「子どもたちは手を伸ばして、目をつぶり、あなたの眉間あたりに手をかざしてきます」

 挨拶なのか。もっと心の底の何かを感じた。寄り添いのメッセージなのだろうか。すぐ肌の隣の感覚があった。ソーシャルワーカ―は、「子どもたちには、お金や物をあげないでください」という。街を歩いていると、たびたび物乞いの手がのびてきた。心あらずの手だった。

  • 眠る人

 マニラの道端で印象に残るもの、ふたつめは、眠る人と眠る動物たちだ。路上で、岸壁で、リキシャのサイドカーで、スラム街の階段の片隅で、人が眠っている。犬が道端で横になっている。猫が眠る。豚が眠る。伊藤若冲の日本画から飛び出してきたようなスタイルのいい鶏が、籠の中でおとなしくしている。大人も子どもも横になっている。熱帯の気候のせいなのか。家の無い人たちなのか。無気力な人、希望がない人、病気の人なのかもしれない。横たわるものたちは、あまり身の危険やストレスを感じていないようにもみえた。東京のサラリーマンやOLの顔を思い出した。超満員の通勤列車で、吊革を握りながら揺られ、眠る姿を。

  • ココヤシの村で

 日曜日、郊外のココヤシ園へ小旅行にいく。ここにも元ストリートチルドレンの男の子の学び舎があった。子どもたちに案内される。まずはパフォーマンス付のあいさつと自己紹介があった。ココヤシナイフで椰子の実を割って、ジュースや果肉を食べた。フィリピン珈琲に粽をいただいた。糯米をココナッツミルクで炊き、バナナの皮で包み蒸したものだ。ココナッツオイルの製造を見る。ココナッツの実にオイルを塗って、ゲームをする。川遊びしてお散歩。ココナッツづくしのフルコース、休日を堪能した。

 土埃の道を歩いていた。突然、目の前でバスケットボールがはねた。バスケは、フィリピンの子どもたちに一番人気のスポーツだ。ボールの空気が抜けているのか、いびつに跳ね、草むらにころがっていった。それは、頭上十数メートルから落ちてきた椰子の実だった。ひやり、である。路上にて。こんなことも起きるのだ。宿に帰り、新聞を読む。『The Manila Times』によると、日本海に4発のミサイルが落ちたという。

 マニラの夕陽は見事だった。日の入り前、NGOの人々は子どもたちが生活をする公園へ、夕ご飯の配給に向かう。生活の基本を、IT端末やポスターを使って子どもたちに教える。ハンバーグ、炒飯、パンなどをもらって、公園で夕餉の時間を楽しむ。半分を食べ残す子どもがいる。親、兄弟に分けてあげるのだという。家族思いだ。

 今のフィリピンは、戦争直後70年前の日本と似ているといわれる。フィリピン人の平均年齢23歳。人口は1億を超えた。1千万人が海外で働く。ストリートチルドレンたちにも、「家族が大好きで、ぼくたちが、妹や弟を支えなければ」という使命感が、強く感じられた。

 子どもたちと触れ合い、いろいろな学びがあった。身近で困っている人に寄り添うこと。現場を自分の目で見ること。よく眠ることの大切さ。もっとゆったりとかまえて生きていきたい。大きくなった子どもたちと、どこかの海で再会できたらうれしい。   

(2017年3月発行のニュースレターNo266より)

チードなまいにち















運営委員・高橋 茜
わたしは現在、メキシコシティにある「プロ・ニーニョス・デ・ラ・カジェ(以後、プロ・ニーニョス)」というNGOが運営する定住施設で、ボランティアとして働いています。考える会のメキシコ・スタディツアーで同団体を訪れたことがきっかけで、今は週5日、朝から夕方まで働いています。同団体は、メキシコシティの路上で生活、あるいは1日の大半を過ごしている少年たちが、より良い人生を選択できるように活動しています。定住施設は、路上での生活をやめ、自立した生活を営むことを決断した少年たちが一時的に生活する施設で、「カサ・デ・トランシシオン(移行のための家)」という名前で呼ばれています。通常2〜3人のエデュケーターが常在し、少年たちの生活を見守ります。少年たちは、それぞれ仕事や学校に通っており、施設は文字通り、「家」の役割を果たしています。家の中で役割分担があるように、わたしたちの施設でもそれぞれに役割があり、掃除や整理整頓がしっかりと個人の責任で行われます。  

先日、「家」が果たす役割について考えさせられる出来事がありました。朝出勤すると、いつもは痛いくらい力強く握手をして挨拶をしてくるダビ少年が、全く元気がなく、朝食にも手をつけずに、体の調子が悪いと訴えていました。早く病院に行かなくては、と他のエデュケーターと少し調子の悪そうなもう一人の少年と一緒に、近所の病院に行くと、ダビは感染症にかかっていることが判明。処方箋をもらったはいいものの、近所の薬局には薬の在庫がなく、何軒もまわってやっと薬を手に入れました。薬を飲むとだいぶ症状が軽くなるようで、数時間後には起きて果物を食べられるほどまで回復しました。これは、日本に住むほとんどの人には普通のことかもしれません。病気になったから、病院に行って薬をもらう。その薬を飲んで回復するまで休む。一見当たり前のことですが、路上に生活する子どもたちにとっては、そうではありません。定住施設には、病気になった少年のことを心配する他の少年たち、肩を貸して一緒に病院まで付き添うエデュケーターがいます。これは、家族や親しい人々が構築する「家」に代表される関係に、とても似ているのではないかと思いました。  

周りの人々が病気を治すためにしてあげられることは、ほとんどの場合、あまりありません。しかし、少しのことしかできない場合でも、「心配している」という気持ちを感じることが、どれだけの違いを生み出しうるかということに、気づかされました。それは、路上生活では感じることが難しい、「自分は大切にされている」という気持ちであり、「自分には人間としての価値がある」という実感なのではないかと思います。  

プロ・ニーニョスには、路上生活を送る子どもたちが昼間だけアクティビティに参加しにくるデイセンターがあります。そのデイセンターの壁には、2つの文章が書かれています。¨Los niños no son de la calle, son nuestros¨ (子どもたちは路上に属するのではなく、わたしたちの子どもたちだ) 、そして、¨El niño merece más que la calle¨ (子どもには、路上以上にふさわしいものがある=路上暮らしではない、まともな生活をできるのが当然である) というものです。子どもたちが、どれほどの実感を持って施設でそのように感じているかは、知るすべもありませんし、子どもたちに物理的な「家」を用意してあげることが、わたしたちの仕事というわけでもありません。しかし、わたしたちが毎日積み重ねるようにできることは、子どもたちのための仕事をしている時に、「わたしたちにとって、子どもたち全員がとても大切である」という気持ちを添えることではないかと、感じています。それは、エデュケーターや調理のおばさん、そして子どもたちみんなで大きな家を作るようなものではないかと思います。例えば、わたしはメキシコシティに知り合いはほとんどいないし、家では一人寂しく過ごすしかありませんが、施設で働いている時は、自分が大きな家族の一員となったような気持ちで働くことができています。子どもたちは少しのことでも、感謝の気持ちを言葉にしてくれるし、わたしたちもそのようにしています。目には見えないものですが、一人ひとりが少しずつ持ち寄って大きなものを作っている、そんな感覚があります。  

メキシコシティでは、観光地とは程遠い環境で生活していますが、先日は久々に観光客に紛れ、チャプルテペック城内の国立博物館に行ってきました。チャプルテペック城は、メキシコ皇帝であったマキシミリアーノが住んでいた城で、現在は周りを取り囲む公園とともに保護されています。そこにはメキシコ革命時の洋服や絵なども飾られており、さながらメキシコの歴史の教科書の中に入ったようです。そこで見つけたのが、ある絵の写真です。国境は描かれておらず、それぞれの地域の特色を交え、先住民の人々の暮らしの様子が描かれています。この絵や毎日の新聞を眺めながら、現在の国境や一つひとつの国々の保護主義的な政策に思いを巡らせ、国同士が共存する関係を築くにはどうしたらよいのか考える毎日です。 (2017年2月発行のニュースレターNo265より)