ジュリアン が NHKで紹介 されました

※会員の有志で奨学金支援をしている、マニラの墓地に暮らす少女・ジュリアンがんばりが、4/3NHK「ニュースシブ5時」(4:50-6:10PM)、BS国際報道で放送されました。番組を見た会員の感想を紹介します。

瀬尾真志

本を読み、写真を見て、旅に出る

『マラス暴力に支配される子どもたち』を読み、外国人記者クラブで写真展《墓地に暮らす子どもたち》を見た。長くストリートチルドレンに寄り添っている工藤律子さんと篠田有史さんのレポートだった。いまこの子たちはどうしているのか。ストリートチルドレンへの関心が大きくなる。「マニラにいかなくては」「これはご縁だ」と、私は思った。今春、マニラ・ストリートチルドレンのスタディツアーに初参加した。

ツアー3日目の午後、私たち5名はジプニー(乗り合いタクシー)に揺られ、D地区の公営墓地へ向かった。マニラはどこへいっても子どもでいっぱい。墓地で子どもが元気に遊んでいた。途中でパン屋に立ち寄る。いつも工藤さんたちは、袋に菓子パンをいっぱい詰めて子どもたちに会いにいくのだ。

この墓地にはおよそ300家族、1500人暮らしていた。この8年間で6倍に増えたという。鉄の柵に囲まれた墓、積み上げられた石棺。貧しい人たちは親族を呼び寄せていた。ビニールシートや廃物を利用した家で、井戸水を汲み、炊事洗濯する。ちょうど夕飯の支度の時間で、あちこちで煮炊きの煙があがっていた。近くの電柱から盗電する。TVを見たり、インターネットゲームをしたりしている。墓石の間には、動物の骨や生活ごみがたまっている。歩くとしゃりしゃり音がした。お墓からお墓へ跳び移る。足元には十分注意がいる。踏み外すと大怪我をする。マンゴーの幹に階段が伸びる。木の茂みの中に家があった。

木の下のお墓にジュリアン(20)と母親フロリサ(38)弟カルロ(14)妹クラリス(12)らの家があった。工藤さんが1年ぶりの再会にハグする。「今度、ジュリアンがTVに出るのよ。私がインタビューするの」

この墓地には、「ドテルテ地区」と呼ばれるエリアがある。そこには「麻薬戦争」で殺された人々のお墓が増えているという。麻薬取引の容疑者となり、警察に睨まれ、簡単に貧しい家の父が殺される。大黒柱を失った家族の貧困がさらに加速する。悲しい連鎖を訊いた。

雨が降り出した。蚊が出てきた。帰りは電車で宿に帰る。ラッシュアワーに遭遇する。若い人の波。常夏の大都会、スーツを着ている人はいない。乗車率は東京の比ではない。おしくらまんじゅう状態だった。

ジュリアンを工藤さんがインタビュー

「放送は4月3日月曜日NHKのシブ5時」と、連絡があった。私は友人、家族、親戚に連絡した。どうしても路上生活者のくらしを知ってほしかった。私はその日、新宿にいた。3丁目のビックロ(家電衣料量販店)TV売り場にて、店員に事情を話す。60インチの大画面の前に折りたたみ椅子を出してくれた。私はリモコンを握り、放映を待った。買い物客は外国人ばかりだった。インドサリーの婦人、イスラム服の家族連れ、スーツケースを引くアジアのお客さん

5時半過ぎ、マニラレポートが始まった。ジュリアンは緊張している様子だが、落ち着いている。とても大人に映った。彼女が家の中を案内する。「私はここで寝ています」。本やノート、アルバム、お化粧品制服が映った。「NGOからの奨学金で短大に通っています」。工藤さんが初めてであった8年前、小学校での成績はトップクラスで、将来は先生になりたいと言っていた。「従妹の女の子は働きながら勉強ました。私も高校を卒業したら、墓地を出ていきたい、もっと別の場所で夢をかなえたいのです」。

ジュリアンは、高校1年のとき、クラスメイトの態度が変わったと感じた。どうしてあんな目にあったのかわからない。泣きたくなる毎日でした」。今、朝7時に起きて登校している。通勤ラッシュにもまれている。「将来、クルーズ船のシェフやホテルマンを目指すコースで学んでいます」。ジュリアンは、ここまで話すと、突然泣き出してしまった。

工藤さんは、ジュリアンになりかわって語っていた。「ジュリアンは、周囲との環境や感覚の違いに悩まされている。クラスメイトにわかってもらえない。まずは仕事を探して、墓地を出て、新たな生活を始めたい」「墓地にいる人びとは、それが普通だと思っている。外の世界との違いを考えない、気がつかない環境にいる。選択の余地を与えられない」

ジュリアンは勇気を出して、私たちに「こんな世界があるんだよ」と伝えてくれたのだ。

机の下で眠る

マニラから帰り、しばらく、私は勉強机の下に布団をひいて寝ていた。公園のバラックやトラックの車体の下で眠る子どもたちを、思い出していたのだ。家族のものはいぶかったが、説明はしなかった。夜中、机の板や脚に頭をぶつけて目を覚ます。敷居に頭をぶつけるのと同じくらい痛い。でもほっとする。安心する。子どものころ、かくれんぼして、押し入れの布団にくるまり眠りこんだ感じだ。

4月に入り、閉そく感が限界にきた。目の前はどうしようもない頑丈な楯。びくともしない壁。視界は絶望的だった。だか、ふと冷静に横を向く。丸まった靴下の玉が転がっていた。その先には漫画本を広げて眠る娘の顔。私は、身体をひねって机の下から抜けだした。まるでヤドカリが貝殻から引っ越しするように。我が人生は不動の壁に閉ざされていると思っていたが、前後左右はすっぽりと開いていた。ちょっと視点を変えるとひらけてくるのだ。「ジュリアン、頑張っていこう!

(2017年4月発行のニュースレターNo267より)

フィリピン/出会う旅2017感想文2

遠藤小夢(大学生)

絶えず鳴り響くクラクション、舞い上がる土埃に排気ガスのにおい、目を瞑ればジプニーに揺られる感覚が甦ってくる。マニラでの8日間は、毎日が衝撃の連続だった。

初日に訪れたディヴィソリアというスラム街では、10代前半にして自分の赤ちゃんを連れた女の子がいた。シンナーを吸って意識が朦朧としている子がいた。髪は乱れ、服は薄汚れ、もちろん裸足であった。しかし彼らは満面の笑みで私たち”よそ者”を受け入れ、私の手の甲を自らの額にくっつけた。これはフィリピンの子どもが大人への敬意を表すための行為である。彼らは地元のファストフード店「ジョリビー」を教室として、自分の体を守るために健康や衛生に関する授業を受ける。授業後に与えられるわずかな食べ物を、多くの子どもたちが両親や兄弟と分け合うために持ち帰る姿が印象的だった。

NGO「チャイルドホープ・エイジア」でディヴィソリア地区を担当するソーシャルワーカーが、「ここの子どもたちは、ほかの地区のストリートチルドレンとは違うんです。ほかの場所にはない、一番の笑顔を持っているんです」と、誇らしげに話した意味を、私は残りの日々で実感することになる。

次の日には、12~17歳の少年たちが定住するNGO「パンガラップ・シェルター・フォー・ストリートチルドレン」を訪問した。個人の寝床やロッカーが与えられる一方、携帯電話やゲームの所持は禁止、勉強第一という規則のもとで生活していた。綺麗とは言えないが、きちんと整備された施設の中で生活する彼らは、シェルター内で任された役割や学校での勉強に、強い意欲を持って取り組んでいるように見えた。こういった環境に身を置くだけで、身なりも英語力もここまで異なるのかと、前日に見たスラムの子どもたちと比較して、痛烈に感じた。その後は墓地で暮らすジュリアンのお家を訪ねた。

翌日には、少女や若い女性の支援をするバクララン教会のシスターたち(NGO「セラズ・センター・フォー・ガールズ」のスタッフ)を訪ねた。実際に彼女らの支援を受けて大学に進学し、現在は公立学校の教師として働いているコリーンさんにお話を聞くことができた。彼女は貧しい家に生まれ、田舎からマニラに移り住んできた。実の父親から性的虐待を受けたこともあったという。その後、シスターたちの支援を受け、奨学金を受給しながら大学へ進学。本当は看護師になりたかったが、学費や医療器具が高額であるため、教師の道を選んだという。

母親が病気で亡くなった後は、父親が精神不安定になり、弟妹もろとも殺されそうになったと話した。父親は刑務所に入ったのち、今は田舎で穏やかに暮らしているという。コリーンさんは結婚し、子どもにも恵まれた。旦那さんや息子さんの写真を見せてくれるコリーンさんは、そんな苦しい過去を持つとは思えない、素敵な笑顔を浮かべていた。聞いているだけで胸が張り裂けそうになる経験をしながらも、それを乗り越え、幸せになりたいという一心で学び、夢を叶えた彼女の強さに、感銘を受けた。

また、教会の敷地内に新しくオープンしたコーヒーショップで働く女性にも、話を聞いた。いわゆる夜のバーや風俗店で働く若い女性たちは信心深く、仕事帰りの明け方、教会に立ち寄ってお祈りをする。そんな女性たちにシスターが声をかけ、新たな生き方を提案する。彼女らは教会が運営する様々な講座から選び、学び、新たな職につく。中でもバリスタとしての技術と知識を身につけた女性が、そのコーヒーショップで働いていた。彼女らはみな、現在の仕事に満足しているようで、さらなるキャリアアップを目指して努力しているようだった。

ツアーも後半に差し掛かった頃、私たちはゴミ集積場を見学した。そこにはマニラからのゴミが毎日、黄色い大きなトラックで運び込まれ、スカベンジャーと呼ばれる人々がお金になりそうなゴミを拾い集めている。10年以年前の大雨でゴミ集積場が崩落し、周辺に住んでいた三百人以上の住民が命を落としたという話は聞いていたが、そこからの復興や再開発の様子も、施設の人の説明やビデオを通して知ることができた。

崩落事故をきっかけに、政府が対策を講じ、様々な工夫がなされ、今では安全にゴミが処理されている。しかし、いつかは限界がくる。その時には新たな解決策や場所が必要となる。安定的に、そして永続的にゴミを処理できるシステムづくりには、まだまだ時間がかかりそうだと感じた。

マニラ滞在中のある夜に、私は旧友との再会を果たした。内閣府が主催する「東南アジア青年の船」で実行委員を務めていた高校時代、地元・岡山に招き、ホームステイをした青年である。彼は大学卒業後、シティバンクに就職し、ニュー・マニラと呼ばれる、いわゆるオフィス街で生活していた。ストリートファミリーで溢れ、どこを歩いても物乞いに遭遇するオールド・マニラとは異なり、すべての土地がきちんと整備されているため、路上で生活する人はいないと話した。

私はツアー期間中、オールド・マニラのペンションに滞在していたので、ニュー・マニラの様子も次の機会に見てみたいと思った。きっと彼の話を聞かなければ、私は自分が見たものだけを”マニラ”として記憶しただろう。そう考えると、国や地域の全体像を捉えるのは非常に難しいことで、”世界は知らないことだらけ”というのを身をもって実感した。

自分ひとりでは決して踏み込むことのできない、言ってしまえばマニラの”負の部分”を見せてくださった工藤さん、篠田さんには感謝の気持ちでいっぱいだ。大学でスペイン語を学び、ラテンアメリカ地域を専攻する身として、次回は是非、メキシコツアーに参加したい。また、マニラで一番の笑顔を持つディヴィソリアの子どもたちにも、再会したい。

(2017年4月発行のニュースレターNo267より)