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ニュースレター

フィリピン・戦時下の少女や女性の人権を考えるに参加して

2016/08/26 07:48:56 ニュースレター
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ストリートチルドレンを考える会

 

運営委員・萩原望見

  毎年、8月のチャリティパーティーは、「平和」をテーマにしている。今年は、日本軍の「慰安婦」にされたフィリピンの女性たちの証言を伝えることにした。今回は、会の共同代表である工藤律子さんにプレゼンターとしてお話していただいた。

実は、このテーマに決めた時、私の中では「フィリピン」と「慰安婦」が結びつかなかった。おそらく、多くの方も同じ気持ちなのでないだろうか。「慰安婦」といえば、例えば韓国の慰安婦問題の印象が強い。両国間でも様々な見解の提示や議論がなされており、政治面でも常に重要なトピックの一つとして取りあげられているからだ。一方、「フィリピンの慰安婦」と聞いても、「フィリピン政府が何か訴えを起こしているとも聞いたことがない」、「元慰安婦による訴えも聞いたことがない」という印象で、あまり問題意識がわいてこなかった。なぜ、日本では知られていないのだろうか。また、フィリピンでは現在、どのように捉えられているのだろうか。

 フィリピンでの学校教育において、「慰安婦」問題はほとんど取り上げられていないそうだ。それも「フィリピンは戦勝国である」という歴史認識に焦点があてられており、現代史の学びの中で、「慰安婦」について伝えるという問題意識は低いという。また、経済面において、日本は今フィリピンにとって最大の援助国であるがゆえに、フィリピン政府も元日本軍「慰安婦」問題を表だって語ることに、抵抗があるようだ。さらに、近年アニメなどの日本文化の浸透により、若者の間で日本びいきが多いフィリピンでは、ますます「慰安婦問題」は、表面化されなくなっている。

 フィリピン政府による訴えがないことや、現在のフィリピンと日本の友好的な関係から、日本でもフィリピンの慰安婦問題は、ほとんど表に出てこない。実は、1993年に元「慰安婦」の女性たちが勇気を持って、東京地裁で訴えを起こした裁判も、最終的に上告した最高裁でも棄却されている。

 イベントを行った翌日の2016年8月12日にも、フィリピン人数十人が日本に対するデモを行っていた。フィリピンの日本大使館前で、当時の「慰安婦強制連行」について、被害者への謝罪と賠償を要求していた。たとえ当事者が声を上げても、国の政策によって封じられ、人々に届かない声、その一つにフィリピンでの元日本軍「慰安婦」の声があることを知った。

 アジア太平洋戦争時の1941年12月、日本軍は、当時米国の反植民地状態にあったフィリピン・ルソン島に上陸している。この戦争によってフィリピンでは、日本人約50万人、フィリピン人は何と110万人以上が犠牲になった。マニラをはじめ、占領地となった先々で、日本軍は慰安所のようなものをつくっていたが、フィリピンの「慰安婦」についてとりわけ衝撃的なことは、軍の占領地域の一般女性・少女が相当な被害を受けていたことである。元日本軍は、移動して占領していく先々で、一般女性(その多くは当時まだ10代と幼く、少女であった)を暴力的に拉致・連行して、駐屯地の建物に監禁し、強姦をつづけたのである。これは「慰安婦問題」というよりも、(多くの場合、未成年に対する)「性的虐待」といえる行為であった。

 戦後、長い時が経ち、当時10代で被害を受けた少女たちには、すでに亡くなってしまった方も多く、ご存命の方もすでに80、90代になっている。長年に渡って彼女たちを支えてきた団体「リラ・ピリピーナ」(マニラ首都圏ケソン市にある)は、それでもなお、彼女たちの証言を伝えようと闘っている。

 「リラ・ピリピーナ」の活動に参加し、現在も自らの声で証言し、活動している女性たちの声が、工藤さんにより紹介された。ここにその証言をすべて記載することはできないが、一部の声を取り上げたいと思う。

 少女が姉2人とともに暴力的に拉致されたとき、その暴力は彼女たちだけに向けられたものではなく、一緒に暮らす家族にも及んだ。まず、少女たちが見ている目の前で、父親が暴力を振るわれ、そして母親も強姦されて、抵抗ができないまでになると、10代の姉妹3人は、そのまま拉致された。どこに行くかもわからず、連行されるなか、少女が家の方を振り返ると、家が焼かれて煙が立ち上っていたという。それは、家族が焼殺されたことを意味していた。駐屯地に連れていかれると、彼女たちは会話を禁じられた。そして、ただ強姦されるがままにならざるをえなかった。

「逆らうと、煙草の吸い殻を押し付けられ、まるで灰皿のように扱われた」

「昼は、掃除に洗濯、アイロンがけ。そして夜はレイプ」

 そのような生活を強いられていたのだ。

 また、とある地域では、小学校の校庭で「日本兵を歓迎する会」を開いたという。その時に「愛国行進曲」という日本の歌を子どもたちがうたって、歓迎したそうだ。衝撃的なことは、その後、歌をうたった少女たちの中から数人ずつ、授業の合間に学校の先生に声をかけられて、校舎の裏の建物(日本軍駐屯地)へ行くように言われたという。理由もわからないまま行くと、少女たちはそこで日本兵に強姦された。

 このことを少女たちは当時、家族はもちろん、まわりの誰かに語れるはずもなく、その辛い気持ちをただただ一人で抱えこんでいたことを思うと、胸が詰まる。この証言をしてくれた女性がインタビューの際、「愛国行進曲」を歌ってくれたそうで、その歌う姿の写真がスライドに映し出された。この曲と当時の経験は強く結びついているにも関わらず、その表情がとてもにこやかなことが、苦しかった。当時、学校の先生の指導で「笑顔で歌う」練習をしていたのだろう。きっとこの曲を歌う時には、その表情になるのだろう。

 実際、過去に日本軍によって強姦された女性たちの多くは、その事実を家族にも話せず、また、それが知られてしまったら、という不安から、故郷の村を去る決意することもあったそうだ。また、強制的とはいえ、日本人と関係を持ったという事実が知られてしまえば、「身売り」のイメージを持たれてしまうという不安があり、誰にも語ることができずにいる人もいるという。

 自分の過去を否定し、隠し、そして、なじみの土地や共に暮らしてきた家族も奪われる。なぜそんな仕打ちを受けるのかもわからない少女たちだったからこそ、そうして生まれた心の傷は、より深いものであろうと感じる。それでも、辛い記憶を思い起こし、声を上げる女性たちは、「日本政府はこの事実を認め、政府として正式に謝罪をしてほしい」という思いを持っているという。彼女たちが日本政府に抱く思いは、怒りの感情である。ただ、現在の日本とフィリピンの国家間関係により、両国のメディアなどでも取り上げられにくく、彼女たちの訴えは私たちに十分には伝わってこない。だからこそ、今回私たちが取りあげ、知ってもらう機会を作れたことが、本当に意味のあることだと思う。

(2016年8月発行のニュースレターNo259より)