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ニュースレター

メキシコでのボランティア体験が育んだ今

2015/08/21 10:07:13 ニュースレター
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ストリートチルドレンを考える会

 佐藤明子(教員)

 

○はじめに

 あの1年が自分の人生の中で最も濃い時間であった。あの1年があったからこそ、今の自分があるんだ。そんな思いは、10年経っても、変わらない。

 

○メキシコ

 私は2003年夏から1年間、メキシコシティの市内にある「プロ・ニーニョス・デ・ラ・カジェ」というNGO(会の支援先)でボランティアをしていた。当時の私は大学3年生で、スペイン語を専攻する一方、世界の貧困問題にも強い関心があり、将来は貧困問題解決のために国際機関で働きたいという大きな夢をもっていた。そのため、校外ではいくつかのNGO団体に顔を出していた。「ストリートチルドレンを考える会」もその一つで、メキシコでのボランティア先を見つけることができたのは、会のメキシコツアーに参加し、会の協力を得たおかげでもあった。

 私は少し変わり者で、あまり人と同じことをするのが好きではなかったし、とにかく言葉は使ってこそ意味があると信じていたので、言語を学ぶために留学するつもりはなかった。「貧困」と「スペイン語」、「外国語を使って、その文化圏内に暮らす人とつながりをもちたい」、自然と私の足はメキシコシティに向かった。

 「プロ・ニーニョス・デ・ラ・カジェ」の仕事は、簡単にいうと、路上生活をするストリートチルドレンを社会復帰させることだ。具体的には、①路上を歩いてストリートチルドレンを探す、②団体の施設であるデイセンターでストリートチルドレンに正しい生活習慣を教育する、③ストリートチルドレンの社会復帰先をコーディネートする、という3つの仕事に分かれていた。私は1年のボランティアの間に、①と②の仕事を経験した。

 何が大変だったかというと、いかに同僚や子どもたちと信頼関係を築くか、という点だった。ただでさえアジア人は実年齢よりも若く見られるのに、私は当時21歳、最初は子ども扱いをされることが多かった。当然ながら言葉の壁もあった。大学で2年勉強したといっても、私が学んだのはスペインのスペイン語、メキシコでは全く使いものにならなかった。要するに、言葉もわからない外国人の少女が、メキシコのストリートチルドレンを社会復帰させようとしていた、というのが実情だ。しかし、やる気と度胸だけは人一倍あった。

 私は人間関係を築くために、徹底的に仲間と同じことをした。同じものを食べ、同じ言葉を使い、同じ服を着て、同じ生活をした。体重も増えたし、言葉づかいは随分変わったし、時々メキシコ人と間違われるようになったけれど、1年後には、かけがえのない仲間を手に入れていた。路上の子どもたちも、徐々に私をエデュケーターとして認め、一目を置くようになった。大人だけでなく、子どもたちとも心を通わせることができたことは、本当に幸せな経験だった。

 

○日本

 メキシコでの充実した時間は、私という人間を大きく変えた。以前よりも脳みそが柔らかくなり、お酒に強くなっただけでなく、自分の進路までも変えてしまった。メキシコの社会問題は根深く、外国人ボランティアには介入できない難しさがあることに気付いたことから、私は自分が深く関われる母国の教育に目を向けるようになった。日本に戻ってからは、当初の専攻に加え、教員養成コースを取得することにした。大学3年時から教員を目指すのは少しばかり遅すぎたようで、予定よりも1年多く在学することになったが、卒業後、私は希望通り、公立中学校の英語教師になった。

 どの仕事もそうだとは思うが、教師という仕事も、実際にやってみないとわからないことが山ほどある。とにかく私は教師になって、ようやく日本社会の実態が少しずつわかるようになってきた気がする。それまでは、自分の生活してきた世界が日本のスタンダードだと思っていたが、それは日本社会の一部に過ぎなかったのだ。

 日本には、見えない貧富の差が存在していた。収入が低く、生活保護に頼らざるを得ない家庭も多い。両親が、離婚して1人で子どもの面倒を見ているケースも少なくない。また、私の勤務していた場所は外国籍の生徒がクラスの15%以上を占める、少し特殊な地域でもあったため、働き始めてすぐ、日本人のくせに日本でカルチャーショックを受けた。

 家庭環境が子どもに与える影響の大きさを目の当たりにした。学校でできることには限界がある。もちろん学校も全力を尽くすのだけれど、家庭との協力なしには何も成功しない。日本で教員を7年経験したが、常に大切にしてきたのは、お母さんとの関係だった。家庭も一緒になって頑張ってもらえるかどうかが、学校教育の成功の鍵だと思う。お母さんたちからは、実に沢山のことを学んだ。もちろん若気の至りで失敗もしたけれど、「子どもを思う気持ちは同じ」と信じて体当たりでやってきて間違いなかったと思っている。

 子どもも同じだ。とにかく担任をするにも授業をするにも、人間関係が成り立っていなければ始まらない。「子どもだまし」は子どもには通じない。しかし、真っ向勝負をすれば、子どもには必ず通じる。日本の教育現場でも、メキシコの時と同じで、一生懸命さと真摯な態度は、必ず相手の心に通じるという確信が持てた。

 

○シンガポール

 日本で生活をしていても、いつもどこかで海外に目が向いてしまうのが私だ。教員生活6年目、自分の仕事に少し自信ができた私は、海外の日本人学校で働く決心をした。当時は、小中一緒の小さな学校で、英語以外の教科も教えながら、アット・ホームな雰囲気で仕事をするものと想像していたが、実際にたどり着いたのは、予想もしない、ここ大都市シンガポールだった。日本人学校に来たにも関わらず、日本と変わらない中学校の英語教師を続けられるというのは、非常に珍しい例である。

 世界には現在、88校の日本人学校があり約2万人の子どもたちがそこで学んでいるが、中学部として独立しているのはシンガポールと香港のみだ。つまり、多くの日本人学校の教師は、小学校と中学校の教師をかけ持ちし、当然専門以外の教科も教えている状況にある。ところが今の私は、日本の私立進学校で働いている感覚に近い。家庭環境は安定しており、子どもたちは学力も高く、素行も良い。つまり日本では、教科指導にたどり着く前の日常の指導で手いっぱいだったのが、ここへ来て、全力で教科指導に取り組めるようになった。

 赴任当初は、自分が描いていた日本人学校のイメージとあまりに違うので、戸惑っていたが、今は「真の国際人を作ること」を目標に子どもたちの前に立っている。「日本人でありながら国際的な感覚も持ち合わせている、柔軟な人間を育てたい」というのが、ここに来てからの私の夢である。

 

○おわりに

 工藤さんに「若者を元気づける文章を書いて」と言われて、この投稿をすることになった。これが励ましになるかどうかはわからないけれど、私は常に今の生活が幸せだと思える人生を歩んできたし、いつもそうなるように努力をしてきたつもりだ。やはり、自分が幸せであることが一番だし、そうでないならば、それに近づけるように自ら変化を起こしていくべきだ。だから私は、これから先も自分で自分の人生を作っていきたい。

(2015年8月発行のニュースレターNo247より)