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ニュースレター

フィリピン・ストリートチルドレンと出会う旅2014 感想文

2015/01/14 15:08:23 ニュースレター
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ストリートチルドレンを考える会

角智春(大学生)

夏のメキシコに続いて、春のフィリピンに行ってきました。気温の話をすれば、どちらかというとメキシコが快適な春で、今回のフィリピンが灼熱の夏という感じだった。3月のマニラには酸っぱいにおいが立ち込めていて、道路の割れ目に溜まっている汚れた水は太陽を反射して光り、あらゆるパッションフルーツの上を蠅が飛んでいた。でも同時にそういう濁った空気を流す涼しい風もあって、路上にあふれる鮮やかな色彩と人々の笑顔が印象的だった。フィリピンの人の笑顔には、色々と身構えていた私の心の垣根をひょいと越えていく、不思議な力がありました。

 

今回は、もっとも心に深く刻まれた少女の言葉ひとつを取り上げ、旅の感想としたいと思います。

 

性的虐待を受けた、あるいはその危険にさらされていた少女たちが暮らすSerra’s Center for Girlsにて、女の子たちとアクティビティを楽しんだ。ほんとにいい子たちでした。歌もダンスも上手いし、私たちの一夜漬け「恋するフォーチュンクッキー(詳細は書かないが、カラオケで出来る芸がひとつ増えました。折しも送別会、歓迎会が重なる春ですので、活用させてもらってます)」にもノッてくれるし、ロザリオづくりや折り紙では、私の不器用さに辛抱づよく付き合ってくれた。みんな明るく、こまやかな気配りができる女の子だった。二人の女の子に付きっきりでロザリオ作製指導をしてもらっていたのだが、そのときに恋愛の話になって、どんな男の子がタイプなのと私が尋ねた。すると、私の右側に座っていた女の子がこう答えたのである。

I like a boy who accepts what I am.

私は、いまの自分のことを受け止めてくれる男の子が好き。

14、5歳の女の子から、これほど成熟した、これほど衝撃的な言葉を聞いた。彼女や彼女たちは毎日、what I amということと向き合う作業をしている。

 

ひとりひとりの過去に何があったのかを私は知らないが、彼女たちは今までの人生のどこかでwhat I amの崩壊を経験している。そしてその記憶は、恋愛に対して肯定的なイメージを与えないような種類のものである可能性が高い。だから、恋愛という、自己と他者の境界が危険なかたちで崩れかねない人間関係を語るときに彼女が選んだこの言葉遣いは、ふかさを持つ。彼女はunderstands(理解する) ではなくaccepts(受容する) を選んだ。「相手の気持ちになって考えてみなさい」という言葉は、幼いころからあらゆる人に言われてきたけれど、ひとの心は想像を超えて理解しがたいものだと私は思う。

 

他者が何を感じ、何を考えているのかを完全に理解することはできない。しかし、しばしば独りよがりになる〈私〉は、過剰な期待を抱きながら傲慢に〈他者〉の理解へと手を伸ばそうとする。人間関係を構築する上で、acceptというものがいかに難しい行為であるか。他者を受容することを可能にする唯一のこころがまえは、敬意なのではないかと私は考える。「受容」は、自分の心のキャパシティが相手のそれより上回っているから成り立つといったような行為ではない。そのような考え方こそ、他者という存在に対して傲慢なバイアスをかけることにつながる。こちらの理解の及ばない部分を相手のなかにみとめ、それを大切にする。これが敬意だと、私は思う。相手のことをありのままに受け止めること、つまり、「あなたのことは分からない。でも分かりたい。でも分からない。でも……」という苦しい距離感に留まることができるのは、相手を尊敬し尊重する気持ちがあってこそなのだ。

 

愛というのはときに倒錯しやすいもので(と書いていると、「また女子大生がポエムやってる」と思われがちですが、そこは目をつぶってください)、「全部知りたい」、「全部分かってほしい」という欲求へとつながる。この欲求の湧出は相手への執着を生み、そして自分と相手のズレを感じた瞬間、ついには激烈な怒りに変容する。フィリピンの少女たちの人生を蝕んだのは、この「愛から出てきた感情」なのではなかったか。「子どもが自分の思い通りに動かないから」ぞんざいな扱いをうけ、家を追われた子どもが何人いることか。ゆがんだ愛情を虐待というかたちで押しつけられた子どもが何人いることか。

 

あの少女が発した言葉をもう一度考えてほしい。彼女は、Serra’s Centerで過ごす日々のなかで、あの言葉を見つけていったはずである。彼女がWhat I amをacceptするという愛のあり方を見つけたことの意味は、途方もなく大きい。「分からなくたっていいじゃない。理解を絶した相手と一緒にいて、気持ちが分からないのに抱き合っているということが素晴らしいんだよ。それが愛の奇跡でしょう。はは」というようなことを、ラジオで内田樹先生が言っておられた。なにも恋愛だけの話ではない。名越康文先生はこうおっしゃる。「がっついたらいかんよ。前のめりでも鈍感でもいかん。Passive(受身の、消極的な)でもなくpositive(自信過剰の、積極的な)でもなく、acceptable(受容できる)。受容する感じ。がっついてもいなく、腰が引けてもいなく、ありのままをみよう。爽やかな気持ちでいたら目の端のほうまで情報が入ってくる、というような状態」自分をacceptableな状態にしておくことは、人間関係をなめらかにつなげていく。気付けなかった他者とのつながりにも目を向けることができるはずである。無理に入っていくのでもなく、萎縮するのでもない。他者との関係性の網のほうへ、自分を開いておくこと。ボランティアを行う上でも、大切にしなければならないこころがまえだと思う。

 

彼女たちがまさにこのような態度で私たちに接してくれたことに感謝する。ありがとうございました。ひとりひとりがこれから健やかな人生を歩んでいってくれること、心から願っています。

 

(2014年3月発行のニュースレターNo230より)