メキシコ・ストリートチルドレンと出会う旅2017感想文

渡邉日菜子(大学生)
 首都メキシコシティのビジネス街では、日本と同じくらいの価格設定のカフェテリアが立ち並び、スーツを着たサラリーマンが早足で歩く。一方、地下鉄の駅では露店でお菓子やタバコを売る者、車内ではイヤホン、ガム、チョコレートを片手に一駅一駅車両を乗り換えては売り歩く者、「足を失って仕事を探している」、「子どもが病気のため薬代が必要だ」と身の上話をして物乞いをする者。そして街の片隅には、静かに毛布にくるまり薬物を吸うストリートチルドレンの存在があった。私が、スタディツアー中、彼らとの交流から感じたことは、意外にも「自由、優しさ、強さ」という言葉だった。

●自由さ
 ストリートチルドレンと聞くと、貧しい、かわいそうと想像するだろう。しかし、実際に子どもたちと関わる中で感じたのは、あくまで自分が限られた選択肢の中から、意志を持って選択してきた道を歩んでいる、それに満足して生きている子どもが多いことであった。しかし、子どもたちが路上生活を選択するのには、家庭内暴力や麻薬依存などの理由がある。その背景には、不安定な家庭環境、自分の利益だけを目的に勢力を広げる麻薬組織の存在などがある。

 NGO「プロ・ニーニョス・デ・ラ・カジェ」は、11歳から16歳の少年を対象に、洗濯、食事などの生活の基礎を身につけてもらう活動に加え、アクティビティなどを通して、新しい定住ホームでの生活を始められるよう、橋渡しの役割を担っている。ストリートエデュケーターは、路上で生活している支援対象に当てはまる少年に、施設に来てみようという意思が生まれるよう働きかけている。ツアーでは、ストリートエデュケーターに同行して、サッカーやカードゲームをして子どもたちと触れ合うことができた。

 彼らと関わる中で、以前施設にいたにもかかわらず、路上生活へ戻った子が想像以上に多いことに驚いた。やはり、路上から抜け出すまでの道のりは単純ではない。食事も提供され、清潔で安全な施設に通う決断をするのが難しいのは、なぜか。

 ケースによって様々だが、エデュケーターが説明してくれた主な理由は3つある。1つ目は、施設に入れば、路上のコミュニティから抜け出すことになり、仲間を裏切ることになるから。2つ目は、家庭から、家族から離れたくないから。3つ目は、施設のルールや規制に縛られたくないから。

 路上では、何にも縛られることなく自由に生活でき、麻薬を使うことを制限されることもない。そして、路上にいる仲間や家族と生活することができるから、施設への入居を決断できない、入居したとしても、また路上生活に戻ってしまうのだ。 路上で毛布に包まっている彼らの笑顔が輝いて見えたのは、自分の意思で決めた道を歩む自由さからなのか。

 路上生活する人々は、観光地に集まる。ローカルな土地よりも、お金のある観光客の集まる場所の方が稼ぎは良い。麻薬に溺れている者は、理性が失われ、お金を手にすると食事や衣服よりもまず先に、麻薬を買うようになるそうだ。彼らの間では麻薬依存、HIV感染などが理由で亡くなる者も少なくない。

 ツアー中に出会った路上生活をする50代の男性は、施設のスタッフと話し合っている途中でも、近くで昼食を食べている会社員を見つけた瞬間、物乞いをしに離れて行ってしまった。声は小刻みに揺れており、目は涙目、情に訴えるような表情だった。

 今の生活に満足して生きているように見える笑顔は、まぶしくもあり、私の心を痛めた。その環境を生み出した、現在も生み出している社会をうらんだ。路上生活をしている者にとって死はすぐ近くにあるというが、私がメキシコで出会った子どもたちはどんな未来を歩むのだろう。

●優しさ
 NGO「カサ・アリアンサ・メヒコ」のストリートエデュケーターと公園で、路上生活をしている子どもたちとサッカーをした。1時間半の間、へとへとになるまで遊び、その後はコンビニでスタッフが買ったジュースで皆で乾杯、子どもたちには毎回お菓子がプレゼントさせる。別れの最後には、ヨレヨレのワイシャツをきた男の子が、「お返しに」と、5人いた日本人参加者一人ずつにキャンディをプレゼントしてくれた。一つ足りないとわかると、自分がスタッフからもらったお菓子をくれた。彼は、どこかの会社で働いており、今日は家に帰るという。路上からの卒業生なのか、仲間の昔からの友人なのかは不明だが、帰る家があるのに路上も居場所の一つとしているということは、安心する何かがあるからなのだろう。

 ストリートエデュケーターがまわっている、もう一つのポイントでは、以前施設に通っていたが路上生活に戻ったという、19歳の少女に出会った。私たちが到着すると、すぐ「コーヒーを買ってくるわ」と、私たちをもてなそうとしてくれた。丁寧に説明し断ったにもかかわらず、結局、炭酸飲料を買ってきて勧めてくれた。彼女は薬物依存歴が長く、いつもやっていた単純なルールのカードゲームでは、ミスが目立った。スタッフが彼女をサポートしながらやっとのこと、ゲームを終えることができた。

 自分たちはボロボロの薄い服を着て、寒い路上で生活しているのにもかかわらず、私たちに何か与えようとしてくれる優しさに胸が熱くなった。このスタディツアーでなければ、ここまで近くで彼らの優しさに接することはできなかっただろう。

●強さ 私はツアー参加後、ツアー内で訪ねたNGOの一つである「プロ・ニーニョス」 で、ストリートエデュケーターのサポーターとデイセンターのスタッフとして、2週間のボランティアをした。ツアー中に、この施設のスタッフと、ある地下鉄駅のトイレの向かいで両親や妹と生活する、ジョナタンと弟のチュッチョとともに路上でカードゲームをして交流した。私はボランティアを通して、施設のデイセンターに通い始めたばかりの彼らに再会できたこと、二人の成長を見守れることを、うれしく思った。

 しかし、その期間中、メキシコでは、不幸にも大地震があった。当時、私はデイセンターで子どもたちに折り紙教室をしているところだった。食堂の太い柱の下に非難し、その後、広場で待機。幸い子どもたちもスタッフも無傷で、施設も物理的被害はなかった。

 震源地は、メキシコシティから南東に位置し、グアテマラとの国境に接するチアパス州沖合だ。メキシコシティからは遠かったが、マグニチュード8であり、想定外の出来事にみな驚きと恐怖で動揺していた。机を囲み、いつもより早めの昼食をとり、少し落ち着いたところで、子どもたちをスタッフが送っていった。

 地震後、2日間の休みがあり、デイセンターの活動が再開された。スタッフと普段の半分の人数の子どもたちとともに、地震についてどう考えるか、地震後どうしていたかを、輪になって話し合った。ジョナタンは、地震の当日深夜から朝4時まで、瓦礫に埋もれた人々を、弟と一緒に、一人が5人救出したという。

「人を助けることが、なぜかわからないけど好きなんだ。助けた人の家族がありがとうと言ってくれて、うれしく、幸せな気持ちになった。父親もボランティアをしていたので、自分もボランティアすることを決めた。自分のほかに助ける人がいなかったから、自分が助けたんだ」

 エデュケーターが、この体験がこれからの生活に影響を与えると思うかと質問すると、彼は、こう答えた。

「大きなきっかけになった。路上生活は何も生まない。将来は人を助ける仕事をしたいと思う」

 デイセンターに通う前の彼らを知る私は、地下鉄の駅からすぐのトイレの向かいで生活し、毛布にくるまっていつもデイセンターに向かいたがらない姿からは想像がつかない、彼らの勇敢な姿に驚かされた。私は彼から、日本では感じることのなかった、生きるエネルギーに溢れた力強さを学んだ。

●まとめ
 メキシコでは、政治家の汚職問題が後を絶たない。警察は路上で生活する者にとって、問題解決の救世主ではなく、問題の一つであるという。メキシコも日本と同じように、富裕層と貧困層の二極化が進み、一握りの富裕層が権力を持ち、多くの貧困層が人間らしく生きる権利を失っている。確かに、NGOの支援も有効だが、それでは追いつかないだろう。社会全体の仕組みを変えなければならないのではないか。

 ストリートチルドレンが、路上生活を選択し、薬物依存やHIV感染を原因に幼くして亡くなるのは、自分の利益を求め、欲望のまま生きる大人が生み出した環境によるものだろう。「自由、優しさ、強さ」を持つ子どもたち、未来ある子どもたちが幸せに生きる社会とは、どんな社会か。彼らが人間らしく生きる権利を取り戻さなければならない。

 現在、メキシコの低い賃金、アメリカ合衆国やメキシコ湾に接した地理的条件、自由貿易協定などを理由に、日系企業のメキシコ進出が著しい。2国間の関係が深まる中で、お互いの影響力は高まってゆく。グローバル化、新自由主義が世界で広まる中で、個人の経済的利益を求めるのではなく、皆が手を取り合い持続可能な社会を作り上げ、弱い立場に立たされた人々が人間らしく生きる権利を取り戻し、社会全体、地球全体で、それを包摂できるような仕組みを作り上げることが必要だと、私は考える。

 現在はスペイン語と国際関係を学んでいる大学三年生だが、将来、社会の一員として、できることは何だろう。スタディツアーへの参加は、大きなヒントを与えてくれた。

 最後に、このような素晴らしい出会い、経験を与えてくれたツアーを主催するストリートチルドレンを考える会の工藤さん、篠田さん、ボランティアの皆様、参加者の皆様に感謝申し上げます。


(2018年1月発行のニュースレターNo276より)

グアテマラの子ども その12

 *中米グアテマラの地元メディアの記者が、現地の子どもたちの様子をレポートします。

現地記者 ハイメ・ソック
 たった2ヶ月でこの世を去った赤ちゃん

 11月のある夜、グアテマラのケツァルテナンゴで、生活に困窮していたある家族が、外で一夜をすごそうとしていました。家族は、ホンジュラス出身のお父さんとお母さん、そして3人の子どもたち(上から8歳、6歳、2か月)の5人でした。

 ケツァルテナンゴは標高が高いことから、特に朝晩とても冷えます。そのため、お父さんは家族を市内の大きな国立病院に連れて行くことにしました。なぜならば、そこではキリスト教関係者が救急で運ばれた患者の家族らに、外で温かい飲み物などを提供しているからです。

 この日は特別寒い夜でした。ホンジュラス人の家族はみんな、病院で温かい飲み物などを受け取り、その後、布切れや段ボールなど寒さを凌ぐために持っているものを巻きつけて横になり、眠りにつきました。ここまでは、彼らにとっていつもと何ら変わりのない夜でした。夜が更けて、2ヶ月になる赤ちゃんがずっと泣き続けていました。そのため、お母さんは授乳をして寝かしつけてあげました。赤ちゃんは寝入ったようで、数分後には泣き声は止み、お母さんとお父さんも安心して他の子どもたちとともに寝ました。

 朝方になり、お母さんが「もう、授乳の時間であるはずなのに、どうして子どもが泣かないのかしら」と不思議に思いながら、ふと額に手をやると、その冷たさに背筋が凍りつきました。すぐに夫を起こして状況を伝え、赤ちゃんを病院に運び込みました。赤ちゃんは、あまりに寒い環境にいたことから低体温症となり、医師らの懸命の救命活動にも応えることなく、その短い人生に幕を下ろしたのです。

 両親は、まったくお金を持っていなかったため、ある葬儀会社が赤ちゃんのための棺を用意しました。同時期、ケツァルテナンゴの自治体は、この両親は経済的な面において育児できる状況ではないと判断し、経済的な安定を得るまでは養護施設で預かるという約束で、残された2人の子どもを施設へ送りました。そのため、赤ちゃんはこの2人の兄弟には見送られることなく、埋葬されたのです。

 赤ちゃんはたった2ヶ月でこの世を去りました。両親はその責任について刑罰に問われています。しかし、その「責任」は両親にあるのでしょうか。そうではなく、貧困とそれに喘ぐ人々を救ってくれることのない国や社会こそが問題ではないのでしょうか。 


(2017年12月発行のニュースレターNo275より)