三鷹国際交流フェスティバル2017 に一緒に参加しませんか?


今年もこのイベントの季節が近づきました!毎年、メキシコの庶民の飲みもの「
ハマイカ水(ハイビスカスの花びらを煮出したドリンク)」をはじめ、メキシコとフィリピンの民芸品や書籍を販売しています。今回は、国際交流多文化紹介プログラムの一環として、朝10時から30分間、「ストリートチルドレンの生活を知ろうクイズ」も、野球場バックネット裏の6番ブースで実施します。

 私たちといっしょに、「ストリートチルドレンを考える会」の店を運営するボランティアを募集します。数時間でも構いません。参加できる方は、会へメールでご連絡ください。よろしくお願いします!

日時  9月24 日(日) 10:00am〜15:30pm (小雨決行)

場所  三鷹市 井の頭恩賜公園西園文化交流広場及び野球場周辺

主催  公益財団法人三鷹国際交流協会

共催  三鷹青年会議所

 ※ブースでのボランティアに関する連絡は E-mail info@children-fn.com へ、
氏名、連絡先メールアドレス(と電話番号)と、手伝える時間帯をご連絡ください。 

More than a shelter NGO「バハイ・トゥルヤン」の挑戦 参加報告1

 
運営委員・高橋 茜

 7月1日のチャリティパーティでは、フィリピン、マニラにベースを置く現地NGO「バハイ・トゥルヤン」のソーシャルワーカー、エナさんが、同NGOの活動とその姿勢を紹介してくれた。同NGOは、スタッフに加え、スラムの若者たちを巻き込んで、ストリートエデュケーションから避難施設、定住ホームの運営まで実施する、ユニークな団体だ。(詳しくは、同NGOのホームページやフィリピンツアーの感想文を参考に。)

 説明の後は、彼女の計らいで、グループ・ディスカッションの場が設けられた。そのグループ・ディスカッション(参加者が3つのテーマについて2つのグループに分かれて議論する)の間に、エナさんが日本語から英語への通訳を担当する私を呼び、(議論するテーマの一つ)「日本で子どもたちが不当な扱いを受けているのはどんな時だと思いますか?」と尋ねた。私は少し迷って、「自分の意思で行動ができない時だと思います。たまには遊びたいのに、親がずっと勉強することを強いたり、親と一緒にいたいのに、経済的な状況のせいで親と過ごす時間がない子どもたちがたくさんいると思います」と答えた。それから数日間、私は日本の子どもたちの現状と、子どもたちの意思に沿った支援をするということの意味を、考えていた。

 私の周りの学生たちは、日本社会の中でも比較的「いい子」であった人々のように感じる。それなりに勉強をして、大学に入ってきている人がほとんどであるし、それ以前も親の援助を受けながら勉学に励んでいたという点では、理想的な子どもであったことは想像に難くない。しかし、彼らを知っていくうちに、彼らがただの「いい子」ではないということが、少しずつわかってくる。

 私の友人のうち、ある女子学生は、両親に男子生徒にあまり近づかずに生活するようにときつく言われて育ったためか、今でも男性と会話をすることもままならないという人がいる。また、親から常に他人と比較され、けなされながら育った人は、親元を離れて生活している現在でも、親の機嫌を常に伺ってしまう、と話していた。精神的暴力を振るった親がつけた名前だから自分の名前が嫌いだ、という人もいる。子ども時代を抑圧とともに送った、そのような人たちに共通する不安定さは、時に彼らを精神的に危険な状況に追い込んでもいる。そんな時、彼らの一人が私に話した言葉が衝撃的だった。

「ウチの親はさ、毒親だからさ」

 毒親という言葉は、数年前から、親の精神的・肉体的暴力や過干渉などに苦しむ子どもたち(成人している人も含まれる)が、自らの親の異常さを伝え、共有し合うための言葉として使われているらしい。インターネット上にはそのための掲示板やサイトが乱立している中、「自分の親を毒と呼ぶとは何事だ」という意見もある。その意見の裏には、親は常に正しい、子どもはその親に従うべきなのだ、という原則が見え隠れしているが、本当にそれは正しいのだろうか?

 エナさんのプレゼンテーションの中で、特に印象に残ったのが「親は子どもたちに間違ったことをしている可能性もある」というところだった。つまり、子どもたちの意思が無視され、親だからという理由だけで様々なことが子どもに押し付けられていることがある、ということだ。児童労働や売買春といった違法行為にとどまらず、いわゆる世間的には良いとされていることでも、子どもの同意なしに親がそれを強制し続けるということが起こっており、子どもの権利はそれらの事柄から守られるべきである、との主張は、バハイ・トゥルヤンが活動しているフィリピンだけでなく、世界中で行われるべきものであると感じた。

 日本でも、親は子どものことを愛し、子どもを一番に考えているものであるとされているが、その方法が間違っている場合に、子どもがノーと言える機会があるだろうか。ノーと言えずに育ってきた子どもたちが今、大学生になり、友人関係や恋愛関係、学業や精神的な健康に問題を抱える事態に発展しているケースを、私はいくつも知っている。これらの人々の苦しみは外には見えづらく、「いい子」像に隠れてしまい、さらに重大なことが起こるまで、親は気づくことがないのではないか。もちろん、親に反抗すれば良いというわけではないが、子どもたちが「何か違うぞ、これは嫌だな」と思った時、親に直接言うこと自体が難しい。そうして我慢を重ねて慣れていくうちに、それが普通になり、特に何も思わずに従う子どもになっていってしまう。そこに少しだけ入り込むことができるのは、周りにいる私たち大人である。

 グループ・ディスカッションの中で出た意見で、日本社会で地域コミュニティの役割が急激に減っており、ほかの家庭のことがまったくわからず、虐待などのケースに気づくことすらないという意見があった。かつてあったご近所づきあいのように、私たち一人ひとりが毎日、道ゆく子どもに目を向けることは難しいが、自分とはまったくの他人であっても、子どもが不当な扱いを受けていると気づいた時、もしくは子どもたちがそれを知らせてきた時には、私たちは一歩踏み込み、子どもたちが彼らの意思に沿った生活ができるように支援する義務があると考える。子ども時代をどう過ごしたかが、その後の人生における価値観や人格をある程度形成する。そう考えると、少しお節介なおばさんになってでも、周りの子どもたちの話を聞き、必要な支援があればそれらにつなげることで、子どもたちが抱える問題がその長い人生に与える悪影響を少しでも減らすよう、私たちは努力するべきだ。

(2017年7月発行のニュースレターNo270より)