チャリティ・ラテンクリスマスパーティの報告

逢坂郷実(会社員)

 私は友人(小宮山純さん)に誘われて、今回のパーティに参加した。楽しみではあったが、私は工藤律子さんの本を友人から借りたばかりで、具体的なことは何も知らないまま、会場のドアを開けた。すると、目の前で、ラテンではおなじみの、お菓子の入った頑丈なくす玉をみんなで歌いながら叩き割る、「ピニャータ」の準備をしていた。

 到着してすぐ、愉快な歌とともに、私が一番にピニャータを叩き割るのにトライすることに。テレビで見たことはあるが、実際叩いてみるとびくともせず、驚いた。何度かみんなで交代しながら叩き割ると、大量のお菓子と一緒に、潰れたバナナが飛び出してきた!スタッフの方がバナナを入れていたらしく、お腹を抱えて笑ってしまった。

 そんな始まりですっかり楽しくなり、自己紹介を終えた後、ラテン料理とお酒とともに、スタディツアーや旅行、ボランティア、仕事、恋愛、結婚、様々な話題を楽しく、真面目に話した。初めまして、の方々ばかりだったのに、参加者はみんなオープンに、素直に楽しく会話をしてくれて、妙に安心しながら、私も会話を楽しんだ。素敵な経験をしている方が多くて、会話に夢中になっていると、あっという間にパーティが終わってしまった。

 今思うと、あの安心感は、飾らずオープンで、素直にとびきりの笑顔で話してくれる。まさにラテンな空気がそこにあり、それが心地よかったのだと思う。また、自分と社会について、何かを感じて動いている、そんな人と出会え、共感し合うことができたのが、嬉しかったのだと思う。

 そんな余韻が残る中、友人に、「参加して良かった、誘ってくれてありがとう」と伝えた。そして、「また行こう」と約束している。

 

小宮山純(自営業)

 ニュースレターを読んでいただいている皆さん、はじめまして、小宮山純と申します。先日のチャリティ・ラテンクリスマスパーティでは、ピニャータのかけ声と同時に参加し、持ち寄った各国の手作り料理を食べたり、普段から様々な活動をされている参加者との出会いがあったりと、とても楽しい時間を過ごすことができました。

 なかなか割れないけれど、大人もついはしゃいでしまうピニャータや、メキシコのモーレソースを使った肉料理等は、クリスマスの気分を一気に高めてくれました。今回は、工藤さんの『ルポ 雇用なしで生きる-スペイン発・もうひとつの生き方への挑戦』を読ませていただいていたこと、それと工藤さんの書くブログを読んでいたことをきっかけに、大学時代の友人との参加を決めました。誰かが見ているとはあまり思っていなかったと話されていた工藤さんでしたが、この会の後、すぐにブログを更新していただいたようで、これからも工藤さんの本、ブログともに、楽しみに読ませていただこうと思っています。

 当日は、初めて参加させてもらった場で、また初めましての人ばかりの環境だったにもかかわらず、時間の経過をあっという間に感じるような、楽しい会でした。限られた時間の中で、当日お話できなかった人もいて、それが惜しいところです。

 これまでの個人的なラテンアメリカ諸国との関連では、グアテマラでの語学留学とメキシコでの旅行の経験があります。参加者の中には、ラテンアメリカ諸国を旅したことがある人がいたり、ストリートチルドレンへの支援活動を何年も続けている方もいたりと、興味、関心が重なることも多く、沢山の話題を一気に共有させてもらったような時間になりました。

 普段は山梨県に在住で、なかなかそうした機会がない自分としては、思い切って参加してみて良かったと思います。今回できた人との繋がりが、一番のクリスマスプレゼントになったのかな、とも思います。またこういった機会があれば、ぜひ参加させてもらいたいと思っていますので、会員の皆さん、当日参加されていた皆さん、これからもよろしくお願い致します。ムーチャス・グラシアス(どうもありがとうございました)! 

 

(2017年1月発行のニュースレターNo264より)

この本をお勧めします!「マラス 」工藤律子 著

紹介者・高橋 茜(運営委員)

 中米の国ホンジュラスで若者を中心とした犯罪が増え、治安が悪化している、という話は以前から聞いていた。特に、麻薬や人身売買が絡んでいることは、ラテンアメリカ地域の犯罪にはよくあることで、この本を読むまではそういったことを見たり読んだりしていても、そうなのねーというような他人事的な感情しか生まれなかった。だが、「マラス」を読了して強く感じたことは、遠くに見える彼ら一人ひとりの存在が、私たちや周りの人々と全く同じように現実的で、ある意味でとても人間らしい人間なのだ、ということである。

 いわゆるネタバレを避けるために、本の内容について具体的に触れることはここではしないが、ギャング団「マラス」の一員として言動が冷酷そのもので、いくつもの残忍な犯罪に手を染めてきた人々が、感情を見せ、自らの行いについて自分で考え振り返る姿は、たとえ貧しくて教育を受けていない、社会のネットからこぼれ落ちてしまった人々であっても、そのきっかけと意志さえあれば、新たな人間としての生き方を選択することができるという希望を、具現化しているように思えた。

 もちろん、文章中でも触れられているように、全員が仕事と教育(ここに移民としての権利が加わる場合もある)を得て、社会に出ることができるわけではない。しかし、様々な方法でできるだけのことに全力で取り組んでいくという、ホンジュラスやメキシコのNGOや教会の姿勢には、そこで働く人々が、人は変わることができるという信念をどれだけ信じているかを、見ることができた。ギャングになってしまったら、もう私たちとは違う人間だから仲良くするのとか無理です、と突き放してしまうのではなく、時に失敗しながらもNGO職員や聖職者たちがそれぞれの役割で、文字通り、必死に社会へまた人々を迎え入れようとしている姿勢には、私たちのような周りにギャング集団がいない国の人間も、学ぶべきものがあると感じた。私たちが、自らの世界の外部に置いてしまっている人たち、貧困や複雑な生活環境に苦しむ人たちを、私たち自身が外部から内部へ積極的に招き入れ、共存を目指すことが重要であるのは、日本でもホンジュラスでもさほど変わらないのではないかと考えた。

 また、私が「マラス」を読んで驚かされたのは、宗教の力だ。私自身はカトリックで、ラテンアメリカ地域の大多数の人々と信仰を共にしているが、宗教が人々を変えることにここまで大きく影響しているということに驚き、そして感動した。文章中で、ギャングとして重大な犯罪を犯した人々に、元ギャングの牧師が、「死に値する罪を犯した者がここで今生きているのには理由がある」と説く場面がある。これには、彼の犯した罪は責められるべきではあるが、その人一人ひとりの存在そのものは、常に肯定されるべきであり、人々は「生まれ変わる」ことができる、という考えが詰まっているように感じられた。それは彼の人生そのものであるとも言えるし、説教を聞いている囚人たちの未来の姿を示唆するものであるとも言える。

 加えて、マラスに対抗する「作戦」として政府や警察は、マラスのタトゥーをしている者は見つけ次第逮捕、もしくは「殺害」というギャングそのものが行っていることと大して変わらない方法を取っていることが、知られている。私はこの作戦が、確かにギャングを数として減らすことには貢献しているが、ギャングの問題の根本を解決していないのは、憎悪や暴力を、さらなる憎悪と暴力で押さえ込んでいる構造があるからだと考えた。この構造は増長を生みやすく、人々が自らの人生について考え直し、「変わる」ことを考える機会を減らしてしまうほか、ギャングは掃討されるべきという、ただ一点の立場でギャングと接する危険性をはらんでいると、考えた。

 毎日若者が殺されていく地域で、人々が変わるのを信じる、憎悪と暴力をそのまま返さない、様々な方法で罪を償う人を許すというのは、簡単なことではないだろう。しかし、「マラス」で描かれている、それらをゆっくりではあるが進めていく人たちにこそ、ギャングとは程遠いであろう日本の人々が、学ぶべきことがあるように感じた。

(2016年12月発行のニュースレターNo263より)